2016/4/6
書店での本との出会い3:ホルヘ・ボルピ『選ばれた女たち』
2013年3月初め、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で、フランソワ・ジラールの新演出、ダニエレ・ガッティ指揮、カウフマンが題名役を務めるワグナーの『パルジファル』を聴いた。その翌日だったと思うが、何かの縁か、ストランド書店の見上げるほど高い棚の上から2段目にJorge Volpi, In search of Klingsor, Scribner, 2002を見つけた。これはホルヘ・ボルピ『クリングゾールをさがして』の英訳本だが、『パルジファル』は『クリングゾールをさがして』の物語と密接に絡み、悪とは何かという1つのテーマを暗示する。それはともかく、そのハードカバーの英訳本を開いてみると、ある人物への献辞とともにボルピのサインがあり、2012年12月4日という日付が記されている。そのサインが本物かどうかわからないまま購入することにするが、ストランドのタグをみると6ドル。元の定価は26ドル、そして2013年3月1日の日付。単なる古本として売られているのか、サインが入っているため価格が下がっているのか、あるいは献辞などという余分なものがあるために安いのか。いずれにしても、その本はボルピがサインしてからわずか3カ月後に棚に並べられたことになる。誰がストランドに売ったのか。献辞にある名前の本人なのか、それともその人物が故人となって、蔵書を家族が売り払ったのか。なんだか淋しい話だった。
『クリングゾールをさがして』英訳版
In search of Klingsor
(Scribner, 2002)
ところで、この英訳本をめくり始めて愕然となった。ボルピの原文と違うからだ。『クリングゾールをさがして』は主人公の1人、リンクス教授が書いた序文で始まるのだが、その冒頭は「明かりはもういい!」というヒトラーの言葉。ところが英訳は「九月五日、彼らが来たとき、わたしはルードヴィヒ通りの自宅で……」で始まっているだけでなく、序文全体が再構成されている。では消えてしまった部分はどこにいったのかと探してみると、案の定、「第三巻」の「陰謀」の部分に組み込まれている。原文ではこの「陰謀」は、ヒトラー暗殺計画の推移に合わせて16に分かれているが、英訳では18まであり、リンクスの序文の冒頭の部分はこの最後の18に置かれている。分かりやすくするために英訳者が自分の判断で組み替えたのかもしれないが、このような移動が許されるのだろうか。これまでいろんな作品を翻訳してきたが、英訳を参考にしようとして同じような事例に出くわしたことがある。原文にはない言葉を足したり、またときには原文を削ったり、そんな英訳を読めば別の作品を読んでいることにもなる。それを日本語に翻訳する、つまり重訳すれば、誤差はいっそう拡大する。むろん英訳に限らないのかもしれないが、いずれにせよ重訳というのは常にそんな危うさを抱えている。
この英訳のことが、また先のサインのことがずっと気になっていたが、それをボルピ本人に訊いてみる機会が訪れた。今年、東京国際文芸フェスティバルのために来日したからだ。自分が関わった映画と同名の新作『選ばれた女たち』のプロモーションを兼ねていたはずだが、この3月初旬、夫人同伴で東京に滞在。7日夜、セルバンテス文化センターで『クリングゾールをさがして』を中心に話をした。トークのあとはセンターの上階にあるレストランで食事。イタリア・オペラが好き、SFを書く予定、といった雑談をしてる間に、お開きとなった。ところが、せわしない時間の流れに飲み込まれて、肝腎の質問を完全に失念するという情けないことになった。
『選ばれた女たち』は昨年9月に出ており、11月にニューヨークに出かけた折、バーンズ&ノーブル書店で見つけて購入したものの積読状態だったが、ボルピが来日するということであわてて読んだ。だがこの作品を味わうのはなかなか骨が折れる。作品全体を俯瞰するのはさほど複雑なものではなく、最後に置かれた「後注」では次のような説明がある。
二〇〇一年、何年ものあいだ若いメキシコ人女性を誘拐してサン・イシドロのイチゴ・プランテーションの近くの「愛の農園」で売春を強要していたフリオ、トマス、ルシアーノ・サラサル・フアレス兄弟のネットワークが明るみに出た。一家はトラスカラのテナンシンゴの出だったが、その町は、その土地の噂を信じるとすると、スペインによる征服前の時代から女性の密売にたずさわってきている。この物語は他の二つの作品、つまり、イルダ・パレデス、エベルト・バスケス、レイ・リャン、アーリン・シエラの音楽とこれを書いている人物の台本によるオペラ『四つのコリード』(二〇一三)、そしてダビ・パブロスの映画『選ばれた女たち』にインスピレーションを与えた。
『選ばれた女たち』原書 Las elegidas
(Alfaguara, 2015)
この後注に記された事件が『選ばれた女たち』ではどのように変わっているのか、少し物語をたどってみよう。アルフォンソ・カマルゴ(本文中ではチノという仇名で登場)はテナンシンゴを追われ、妻のサルビーナ、従弟のルシアーノ、その妻イネス、娘のロサリオ、エストレージャ、甥のマーヨ、その名づけ親のビボラとともにアメリカに密入国し、サンディエゴの南にある国境の町サン・イシドロにあるイチゴ・プランテーションに着き、サルビーナを妹と偽ってボスであるグリンゴに差し出し、その手下となるが、イチゴをとるかわりに女たちを見張り、女目当てにやってくる農園の不法入国者たちから金をとる役を任される。その仕事に馴染んだ頃、サルビーナは妹のアスセーナを言葉巧みに国元から呼び寄せて働かせる。やがてチノは妻にそそのかされてグリンゴを暗殺し、自らがボスとなり、エル・マンタラヤという店を出す。その店がうまくいき始めると、チノは従弟のルシアーノの不満が大きくならないようラ・サリーナに送り、店を開かせる。サルビーナは自分には子供ができないため、アスセーナにチノの子を産ませることにする。彼女が妊娠、メキシコ国境の町ティファーナに赴いて出産させると、サルビーナはアスセーナを国に帰らせ、ウリセスと名付けたその男の子を育てるが、粗暴な性格になる。一方、チノは自分を牛耳ろうとする商売敵のロバトを殺すことにするが、その息子しか殺せなかったため、ロバトの復讐の手がのびる……。
アメリカとの国境付近を舞台にして人身売買、売春、密入国、不法労働といった問題が提起され、そうしたテーマで書けば大長篇にもなるはずだが、『選ばれた女たち』はわずか147ページしかない。そのエピグラフには『旧約聖書』の「創世記、12:11-16」が使われている。ここはアブラハムがエジプトに入ろうとしたとき、危害を加えられることを恐れて、妻のサライに、エジプトに入ったら妹だと言いなさい、と命じるところだが、このことについてボルピはとあるインタビューで次のように語っている。
ホルヘ・ボルピ
(2016年、筆者撮影)
テナンシンゴの女性売買を調べ始めた、その最初から、ふと『聖書』のサライの物語を思い出したんです。アブラハムは資料で裏付けられる最初のぽん引きだと思う。というのも自分の妻が妻じゃなくて妹だと偽って、ファラオに与え、巨大な富を得るからです。さらに悪いことに神はファラオを罰します――それが矛盾しているのは、自分の妻を売ったのは実際はアブラハムだったからですが――、そこから小説にもある聖書に関わる全構成要素が派生しました。
つまりはアブラハムとサライのエピソードが、テナンシンゴを起点とする女性密売事件を書く上での大きなヒントに、そして作品を構成する大きな1つの要素になっていることがわかるが、このエピグラフの後に始まる物語の冒頭にはふたたび『聖書』の言葉が用いられている。
1
最初に神は天地を創った
そして地は混沌であり空虚であった
そして光は深淵の表に広がっていた [*ここの「光」は誤植か。聖書では「闇」]
そして神の霊が水面の上を動いていた
そして神は光あれと言った
そして光があった。
(略)
ここまで念を押されると、以後語られる物語と『聖書』とのつながりがいっそう強く暗示される。だが『聖書』への言及・暗示があまりに過ぎると、女性密売や強制売春に絡む残酷さ、暴力性を生の現実から引き離しかねない。日本に入ってくるメキシコのニュースといえば麻薬組織と警察・軍との闘い、組織による大量殺人や誘拐といった事件が多く、最近ではドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『ボーダーライン』が封切られたが、これまでも多くのハリウッド映画の題材にもなっている。ナイフや銃を使った抗争、人身売買、強制売春、女性蔑視、人権無視、他人を抑えようとする支配欲、越境を決意させる貧困も含めて、そうした暴力にはとめどがない。1つの顕在化した事件を基にボルピが描きだそうとするのは、太古の昔から人間に内在し、人間を引きずる暴力という力そのものだろう。だがそれを正面から写実的に描写するには膨大な枚数が要求され、できあがる作品はおそらく暗い、陰鬱なものとなる。そこでボルピはかつてポーランドのある村でのナチスによるユダヤ人大量虐殺をヒントにした『暗い、暗い森』(2009)で行ったように詩句、あるいは詩的な文章を用いて小説を書いたのではないか。
わざわざこの作品を「韻文の作品」と銘打っているのも、そんな意図があるように思える。散文詩という言い方があるなら、韻文小説というものがあってもいいが、ここでは韻律があるわけではないので素直に韻文とは言いがたい。仮に「詩小説」ということにしても、100に分けられた物語のその1つ1つの断片が詩・詩句でなければならないはずだが、果たしてどのように書かれているか。いくつか例を挙げてみよう(ちなみに、最初の数字はそれぞれの断片にふられた番号であり、物語が進むにつれて大きくなる)。
3 婦警への、ロシータの御託[*このタイトルがついているものは9つある]
言われたの歯の大きなあの男の人と出てくんだ心配いらないおまえのいとこのアンドレアといっしょにアメリカに連れてってくれるそこじゃあとってもうまくいってたっぷり貯金してそのあと帰ってくるかそこにいるかだよおまえのいとこといっしょにそれともおまえがかわいいので優しいのでよく言うことをきくので選んでくれるグリンゴといっしょにそうあたしに命じたのこの歯の大きな男の人にあたしの兄弟や従兄弟父さんによく似てるんだけどこの若い男についていくんだロシータおまえは選ばれたんだってそしてあたしは落ち着きその人についてったのほとんど怖くなかった
[*原文に句読点が1つもなく綴られ、売春宿から救出された女性ロシータがアメリカの婦人警官にだらだらとめどなく語る(原文ではletanía、英語にすればlitanyという語が使われているので、『聖書』との関わりを考えるなら、「御託」より「連祷」のほうがいいかもしれない)]
5
耳障りな声で老人は彼に言う、
ここから出て行け、
できるだけ早く出て行け、
できるうちに出て行け。
(略)
出て行け、老人はののしる
そしてチノはつぶやく、
約束を果たします、
お命じになるとおりにします。
9
ふくよかな、
みずみずしい、
あまい、
すべすべの、
やわらかな
イチゴ。
[*43では「イチゴ」が「女たち」、79では「肉体」に替わるが、5つの形容詞はまったく同じものが繰り返される]
14
……イチゴ畑の上を飛んで、草むらに入り込めば、発見するかもしれない、日焼けした肌を、破れたショーツに引き裂かれたブラウスを、壊れたブラジャーを、女の指か唇の中で屹立した性器を、うれしそうな、もしくはマスカラの涙で染まった瞼を、そしてさらにもう少し、たゆたう名もない肉体からすぐそこのところに近づけば、おそらく口ごもった声や呪いの言葉が聞こえ、悪臭を放つ汗や尿のついた性器の異臭がうつり、イチゴのそばに、おいしいイチゴのすぐそばに、見つけるかもしれない、一筋の精液を、コンドームのたまり場を……
[*このように「君」「おまえ」といった親しい間柄にある2人称、おそらくは読者に向けて語られているところが8つある]
45 後年、ラ・サリーナで [*このタイトルがついているものは7つある]
タコス&チミチャンガの(消えた)ネオンの下を
一人のアベニーダがこっそり進み
ルシアーノの家のドアをたたく。
(略)
ロバトは命令したんだ
あいつらの頭にナイフを突き刺せ、
金玉を切り取れ、
穴のあなから串刺しにしろ、
女房、娘どもをまわして
終わったら首を切りおとせって。
だから今夜にでも逃げろ
女房、エストレージャ、ロサリオをつれて、
四人は黙り込み、びくびくする、
振り返ることもなく。
〔*チノと別れ、ラ・サリーナにいるルシアーノ一家を描いていく〕
果たしてこうした断片のそれぞれは詩なのだろうか。単語や句、文が次々に改行されて並んでいると、一見詩のように見えるが、だからといって詩であるとは限らない。先に散文詩という言葉を使ったが、ではそれと詩的な散文とはどこが違うのか。そもそも「詩的な」とは何か。現代詩を読んでいると詩に対するこれまで抱いていたイメージが拡散し、やはり改行は詩を詩たらしめる要素の1つなのかと思ったりする。結局、詩とは何か、という根源的な問題になるが、いまのところ、この問いに答える用意はない。「詩で書かれた小説」と言われれば、そうですかと認めるしかないのかもしれない。
それでも、チノに行動を命じる老人の声、ロシータの延々と続ける話、サルビーナがチノにかける言葉、2人称(おそらくは読者)に語りかけ、その視線をリードして物語の舞台をあらわにする語り手の(コロスのような、あるいは『聖書』との絡みで言えば福音史家のような)声、誰のものともわからない声、婦人警官がシェリフにする事件の説明、等々、様々な声から成るポリフォニックな作品であるのは確かであり、そんなところが、後注にあるように、他の2つの作品にインスピレーションを与えたのだろう。室内オペラ『四つのコリード』は2013年5月にサンディエゴ大学の劇場で初演され、ダビ・パブロスによる映画『選ばれた女たち』は2015年のカンヌ映画祭の「ある視点」部門に出品され、また今年3月に東京で、パブロスとボルピのトークとあわせて、『選ばれし少女たち』とタイトルを若干替えて上映された。
ところで最初にこの作品は味わうのに骨が折れると記したが、それはなぜか。単純なことで『聖書』に精通していないからだ。言葉遣いから「老人」は神・ヤハウエではと考えられ、「コイン30枚」「裏切り者」と言葉が続けば、銀貨30枚と引き換えにイエスを引き渡したユダの裏切りのエピソードが、また、振り返るなというルシアーノの言いつけを守らなかった妻のイネスが左目に銃弾をうけて死ぬところでは、あえて振り返って塩の柱となったロトの妻のエピソードが思い出される。ただこうした例は有名なものであるため気づきやすいが、他に『聖書』のどんな言葉が、エピソードがすきこまれているのかわからない。
もっとも『聖書』を忠実になぞっているわけでもない。例えば、アブラハム=チノ、サライ=サルビーナとすればアブラハムの甥のロト=ルシアーノとならねばならないのだが、チノの甥はマーヨ。アブラハムはエジプトを出た後、財産争いをなくすためにロトと袂をわかつのだが、これは『選ばれた女たち』ではチノと従弟ルシアーノとの間のエピソードになっている。こうした異同はあるのだが、それでも『聖書』への言及が物語全体をうまくまとめあげてもいる。その最たるものは、物語の始めと終わりに繰り返される言葉だろう。
99[*ここと他に3つがイタリックで書かれている]
チノの灰は、
いまだくすぶり、
地平の肌を汚している。
誰も見ることのない
黒い輝き。
そして神は光あれと言った
そして光があった。
この「光あれ」という神の言葉で光が生まれ地を照らすのだが、その光が『選ばれた女たち』ではメキシコの暗部を照らしだし、暴力の存在を暴きだす。ただ、その光によって救いがもたらされもするのだろうか。ふたたび、ロシータの言葉に耳を傾けよう。
93
(略)あたしたちが国にもどるのがどれほど大変かきっとたたきのめされるわ父親や兄弟たちにぜったい許してくれないわあたしたちは裏切り者ほこりくずなのあたしたちがあたしたちの母親やおばあさんやおばあさんのおばあさんたちの伝統を捨てて習慣や秘密を守ることに背くそんなことは許されないのもうあんたたちは行ってしまうでもあたしたちはどうなるのもしかしたら誰かがアメリカに隠れ場を手に入れるかもしれないたぶん誰かがでも他の女たちは?あっちに行ったりこっちに来たりうじむしみたい影みたいにもうあたしたちは影なのよ
アメリカの警察に女性の密売・売春組織が摘発され、救出されたとしても、選ばれ売られた女性たちに戻るところはない。たとえアメリカに残ることができたとしても、その後の生活はどのようなものなのか。エピローグでは主人公たちのその後がそれぞれ1文で綴られるが、「(略)ウリセス・カマルゴはドラッグの運び屋、六人の殺害で指名手配されている。ロシータ・バージェは保護され、中西部のどこかで娘たちと暮らしている。農園の他の女たちは二度と誰にも気にかけられなかった」とある。女たちに安住の地はない。「娘たちと暮らしている」というロシータにしても「幸せに」とは書かれていない。
「これは歴史小説でもルポルタージュでもありません。登場人物の誰一人として直接現実に基づいていません」とボルピは言うが、まるで実際の事件・人物を描いているようにも思われる、そんな作品に仕上がっている。
(2016.4.6)
|