松籟社ホーム  >  安藤哲行「現代ラテンアメリカ文学併走」

2017/3/25

記憶を呼び覚ますもの:アルベルト・フゲッ『わが人生の映画』

  1月17日になるたび、「阪神大震災XX年」という大見出しが各紙の1面に載る。今年もまた朝刊に、M7.3、死者数6434人、負傷者4万3792人という数字が並んだ。だが、1995年1月17日の5時頃、わが家に届いた朝刊(朝日・13版)の大見出しは「新会派「民主」旗揚げ  衆参30人  社党は分裂状態に」と、まるで日常的なニュースだった。そしてこの日、夕刊は届かなかった。数カ月後に各紙が出した、震災に特化した縮刷版を見ると、朝日の夕刊は「近畿烈震  死者439名  M7.2  不明は581人  震源は淡路島  高速道路崩落、鉄道マヒ」、読売は「阪神間  M7.2地震  死者430名超す  不明580人  火災、ビル倒壊」、毎日は「近畿で大地震  M7.2  震源は淡路島  震度6  死者439人  不明580人」。そして地元の神戸新聞は「近畿で大地震  死者203人  不明331人  神戸、洲本震度6  県南部一帯を直撃  淡路島震源M.7.2」。被災者の数が他新聞と大きく違うが、神戸新聞社は、社屋が壊滅的被害を受けて新聞の発行が不可能になったため、京都新聞に協力を求める、そんな状況を考えれば、よく発行できたもので、記者をはじめとする全社員の報道に対する使命感に感嘆する。いずれにせよ翌日にはこの地震は「兵庫県南部地震」、「関西大震災」等と呼ばれ始めたが、23日からは「阪神大震災」に統一され、2月14日には「阪神・淡路大震災」となる。ただ、単に「阪神大震災」という名称もよく使われている。


震災後まもない神戸・長田(筆者撮影)


  記憶は、書き留められなければ、あるいは映像で写し撮られなければ変容していく。先に記した各紙の縮刷版や写真集を見るとその惨禍をまざまざと思い起こさせられ、また拙文「帰還のエレジー」(「ユリイカ」1995年4月号、『現代ラテンアメリカ文学併走』所収)に目をやると、被災地に立ったときの気分が甦ってくる。まさしく焼け跡、瓦礫の街に立ちつくし、空襲の後はこんな風景だったのかもしれないという思いが。そして、普段であれば片道2時間もかからない職場に行くのに6時間もかかったこと、その際の、神戸港から海を渡って大阪に入ったときに受けた衝撃が。被災地が現実であるとすれば、大阪で目にした何事もなかったような光景は非現実、逆もまた真。このとき初めて、現実と非現実は、日常と非日常は同時に存在しうるということを実感させられたのだった。

  阪神大震災のちょうど1年前の1月17日、ロサンゼルスでM6.7の地震が起きる。死者は61人、負傷者約8700人だが、朝日は1995年2月4日に「ロス地震 復興1年」というタイトルで地震から1年後のロサンゼルスの現状を伝え、阪神大震災の復興見通しを考える。それによると、車社会であるアメリカでは道路の整備は終わるが住宅建設はまだまだ先が見えない。1年でいったい何ができるのか。阪神大震災の10年前の1985年7月下旬、メキシコシティにいた。その2カ月後の9月19日、およそ1万人の死者を出すM.8.1の地震が起きる。そして10ヶ月後、ふたたびメキシコシティにいた。旧市街地にある建物は、近代的なホテルでさえ、崩れたまま手つかずになっているところが多く、そうした人の立ち入れない建築物を見て、実に能天気なことに、日本だったら1年もあればきれいに片づけただろうに、と思った。だが、阪神大震災でそんなまったく根拠のない予想は外れる。マンションは建て替えか修理かで居住者の同意がないと手がつけられない。火事で焼失した地区は消防・救助活動がスムースにできるよう道幅を拡幅し、町を造りかえる、そのプラン作りと住民の説得に時間を費やし、かつてそこに住んでいた人々は仮設暮らしを強いられる。復旧ではなく復興をという掛け声に押されて、そのまま元の形を短期間で再現し、元の生活を取り戻すことは物理的にもできなくなる。復興と呼べそうな姿になるにはどれほど莫大な時間が必要だったか。

  日本のように揺れやすい大地の上で暮らす人間はどうすればいいのだろう。いかにして被害を少なくするか。天気予報ほどの精度で、地震予知はできるものだろうか。2011年3月11日、東北は地震とそれに伴う津波により甚大な被害をこうむったが、そのほぼ50年前の1960年5月23日、チリでM9.5の地震が起き、翌24日には津波が日本に押し寄せ、東北を中心に139人の死者・行方不明者が出ている。とすれば日本列島の近くを観察・研究していれば安全が確保できるということにはならない。海の遙か彼方にあるチリも環太平洋火山帯にあり、たびたび大規模な地震に襲われている。そんなチリを舞台にして、アルベルト・フゲッは地震学者を主人公に『わが人生の映画』(2003)を書いた。


Las películas de mi vida
『わが人生の映画』原書
(Harper Collins, 2003)

  チリ大学の地球物理学部創設に関わった祖父の影響で、主人公ベルトラン(1964年生れ、36歳、という設定は、著者であるフゲッと同じ)はチリ大学、ソルボンヌ大学で学び地震学者になるが、2001年1月14日の夜、日本(筑波大学)で教えるために、首都サンティアゴからロサンゼルス経由で日本に向かうことになっている。だが早朝、妹のマヌエラから久しぶりに電話があり、祖父が昨日(1月13日)の地震(M7.8)の揺れによるショックから心臓麻痺で亡くなったのでエルサルバドルに来いと誘われるが、日本での仕事を理由に断る。そしてその夜、予定通り飛行機に乗る。トランジットのリマのホルヘ・チャベス空港で、ダブル・ブッキングが多いので席を譲ってほしいという要請を受け、結局、エグゼクティブ・クラスに移ることで合意する。この座席の移動がその後のベルトランの運命を変えることになる。その機中で、ベルトランは隣席の魅力的な女性、カリフォルニア生まれで移民帰化局で弁護士として働いているリンジーと知り合い、著名な映画監督であるロレンソ・マルティネス・ロメロ(架空名)が出したばかりの自叙伝『わが人生の映画』や映画、ロサンゼルスの街を話題にする。ロサンゼルスに着き、ベルトランは東京に向かう飛行機が出るまでの休憩も兼ねての12時間のフリータイムを利用して空港横のホテルにチェックインし、リンジーが話に出したDVDプラネットに出かける。自分が見た映画がすべてそろっているような大きなその店で3時間ほどDVDを眺めて過ごした後、ホテルで5時間ほど寝ようとする。ところが、フロントのミスかベルトランのミスか、起きるべき時間に鳴ったはずの電話に気づかずに寝過ごし、飛行機に乗り遅れてしまう。16日の朝、ベルトランはマヌエラに電話し、飛行機に乗り遅れたので明日の便で発つと知らせるが、祖父の葬式は明日、と教えられる。その日、ベルトランはタクシーを雇って、幼少年期を過ごした地区をまわる。その後、ホテルで、リンジーと話題にした自分にとっての50本の映画を考える。そして17日の朝、リンジーに2回に分けて、そのリストをメールで送る。

  ベルトランはどんな映画をリスト・アップしたのか。カリフォルニアに住んでいた頃のものは、1966年、ロサンゼルスの南、イングルウッドのドライブ・イン・シアターで見た『野生のエルザ』をはじめに、『グラン・プリ』『ジャングル・ブック』『ドリトル先生不思議な旅』『ダンボ』『ブリット』『オリバー』『わんわん物語』『素晴らしき哉、人生!』『失はれた地平線』『ジャワの東』『ウッドストック』『栄光のル・マン』『夢のチョコレート工場』『屋根の上のバイオリン弾き』『ポセイドン・アドベンチャー』『王様と私』等々が続く。一方、チリでのものは『ソイレント・グリーン』『ブラザー・サン  シスター・ムーン』『タワーリング・インフェルノ』『小さな恋のメロディ』『ジョーズ』『大地震』『サウンド・オブ・ミュージック』『2300年未来への旅』『エアポート'77  バミューダからの脱出』『ザ・ディープ』『キャリー』『ジェット・ローラー・コースター』『未知との遭遇』『ウィンブルドン 愛の日』『チャイナ・シンドローム』『スウォーム』『トム・ソーヤーの冒険』『アイス・キャッスル』等々、リストには映画館だけでなく機内、あるいはTVで見たものもいくつか混じっているが、最後は1978年のアメリカ映画『結婚しない女』。

  こうした映画にそって、幼少年期を過ごしたカリフォルニア、そして、少年期から思春期に移行するチリ等でのエピソードが綴られる。映画を思い出すうちに、その頃の自分や家族の姿がよみがえる。映画を一緒に見ている人物はかわり、ベルトランや家族の人生、彼を取り巻く環境もかわる。父が出奔し、母は祖父の教え子だったメキシコ人と結婚。やがて家族はバラバラになり、それぞれの生を営む。だが、映画からそうして過去を思い出し、リストを作ることでベルトランは忘れものをしていたことに気づく。それは家族を再建すること。そのためにはエルサルバドルに行って、祖父の葬儀に来るはずの母と会い、そしてサンティアゴに帰って父に会い、父を赦すこと。ベルトランは映画の中に人生を見、人生の中に映画を重ね合わせる。映画というフィクション(非現実)と実人生(現実)はどちらがどちらを鑑としているのか。

  物語の現在の時間は2001年1月14日の朝から17日の朝までだが、そこに思い出される過去が加わる。そして舞台は主にチリ、サンティアゴとカリフォルニア、ロサンゼルスの間を移動する。この2つの空間を関連づけるものは何か。それもまた環太平洋火山帯であり、地震。ロサンゼルスで起きた地震のうち被害が甚大だったものを挙げると、1971年2月9日のサン・フェルナンド地震、M6.6。1987年10月1日のウイッティア地震、M5.9、そして、前述した1994年1月17日のノースリッジ地震。主人公が地震学者ということであれば当然かもしれないが、ベルトランが思い出す映画の中にも『大地震』がある。このパニック映画は主演がチャールトン・ヘストンなのでどんなストーリー展開をしていくか予想しやすいのだが、それはさておき、この映画が登場するエピソードは、

    大地震(アメリカ、1974、123分)
    監督:マーク・ロブソン
    出演:チャールトン・ヘストン、ジョージ・ケネディ、ジュヌヴィエーブ・ブジョルド
    場所:1976年、リド映画館、サンティアゴ・デ・チレ


『大地震』
(ユニバーサル・ピクチャーズ)

という映画のデータで始まる。そして、続いて語られるエピソードには祖父と12歳のベルトランが登場する。フィクションは時間の無駄と考え、感情的なテーマに触れるのを嫌がっている祖父は普段映画を見ないが、孫のベルトランと出かけるときは例外。『大地震』は「特別にぼくたちのために作られたような映画」であり、「単なる一本の映画というより一つの出来事だった」。見始めてすぐ、「没頭し、この上なく惹きつけられた、というのも倒壊することになる(そしてそれが神経を高ぶらせた、つまり起きることは分かっているのに、いつ起きるかは分かっていないので)町がロサンゼルスだったからだ。そしてダムが、最初の地震の後、エレベーターの中で溺死する男が映し出されたとき、『大地震』は七一年の地震、シルマー(サン・フェルナンド)地震の再現だと分かった。ただ――明らかに――放出されたエネルギーを増やしていたが」。ところが祖父はといえば、この映画にセンサラウンド(専用スピーカーで低周波を発生させて、地震の振動を体感させるもの)が用いられていることを知らない。「スクリーンでは、ロサンゼルスの町は倒壊し続けており、リドの平土間は揺れていた。少なくとも、揺れているようだった、それも強く、震度七、八、九で。スピーカーから出てくる耐えがたい音が座席を振動させていた。祖父はぼくの手を握った。ぼくは冷蔵庫から広口瓶を取り出すときに感じるのと同じ冷たさを感じた」。祖父はショックから席を立ち、ロビーに出ていく。ベルトランは後を追い、「祖父がベンチに坐っているのを見た。パニックで泣き、額には一本、血の筋が下りていた。肌は透明に見え、彼が年老いていることが初めて分かった。全身が震えていた。両脚は、床が本当に動いていると一瞬思えたほど上下していた」。この『大地震』を見ての祖父の反応は、彼の死のありようを予言していたことになる。

  『わが人生の映画』は、電話(会話)、メール、映画のデータとその映画を含むエピソード群、ベルトランの今を示す地の文から構成されているが、そのそれぞれにエピグラフがついている。そのエピグラフの1つがアレハンドロ・ホドロフスキーの回想録『リアリティのダンス』(2001)から採られている。


  チリでは六日ごとに大地が震えていた!  地面そのものが、言わば、痙攣性だった。このことが誰をも実在の地震に縛りつけていた。人々は、合理的な秩序に統治された頑丈な世界ではなく、震える、曖昧な現実に住んでいた。合理的な面と同じくらい物質的な面で不安定に暮らしていた。


  そんな不安定なチリでベルトランの祖父は地震を予知する研究に没頭したのだが、自然相手に科学者は果たして何ができるのか。彼の弟子のサンティアゴ・プラードは、学生であるベルトランに講義をする。


  地震学は地震を予測することよりもはるかに重要なものを得た。/プレート理論が受け入れられた後、地球上で最も傷つきやすい地域はどこかが明々白々になった。OK、準備完了、これでおしまい。これ以上何をしろと言うんだ?  他に何がいる?  我々は大地の動きを研究しているのであり、看護師でも国家緊急対策室でもない。厳密には、建物が倒壊しても我々にはどうでもいいことだ――少なくともわたしにとってはどうでもいい。倒壊すればいい、そして計算するばかに訊いたらいいんだ。我々が知りたいことはどれほどのエネルギー量が放出されたか、ブロックがどの方向に移動したかであり、ベッドの上の天井が何人の婆さんの上に落ちたか、ではない。断層の上に住んでいるというデータを社会に提出すれば、我々の職務は終わり。彼らがその結果を引き受けなくてはならないのだ。立派に建築する、そして金をかけて建築する、それとも、むしろそこには住まないかだ。(中略)いいかね、諸君、大地との結びつきや思い出を持つことと愚かであることとは別物なのだ。ノスタルジーは記憶とは何の関係もない。人々が本当に思い出すのなら、一刻も早く立ち去らなくてはならないことが分かるだろう。そして、そうしないのなら、まあ、その結果を受け入れ、その後、小さな子供みたいに文句を言わないようにすることだ。


  プラードは科学的なデータを提供することが学者の務めだと言い、被災者が被災地にふたたび家を、町を造ろうとすることに批判的だが、学者となったベルトランは異を唱える。


  サンティアゴ・プラードがその強烈な分析の中で忘れていることは人的要因だ。確かに、強い地震があるたびに、地方の汚職網、変造された許可証、悪辣な建設業者が見つかる。ぼくたちが起きたことを知れば知るほど、今後起きることをはっきりさせることができる、それはその通り。忘れることではなく、ただ思い出すことでしか、ぼくたちはより大きな悲劇を避けることができない。いっそう大きく揺れる場所に、物覚えの悪い、忘れっぽい共同体が現れるのは偶然のことではないと思う。地震はそうして、無意識に、経験した恐怖を忘れる人々を揺り動かす。忘れないようなら、そこで生き続けることができないのかもしれない。それは生き残るための単なるメカニズムなのだ。



『地震雑感/津浪と人間――寺田寅彦随筆選集』
(中公文庫)

  物理学者である寺田寅彦は「津波と人間」(『地震雑感/津波と人間』所収、中公文庫)というエッセイの中で、「困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津波は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。(略)それだからこそ、二十世紀の文明と言う空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼き払われたのである。(略)また日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。それはいつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。今からそのときに備えるのが、何よりも肝要である」と述べ、そうした災害を防ぐには「過去の記録を忘れないよう努力するより外はない」と提言する。そしてベルトランも同意見。


  人々が信じていることとは違って、地震学は記憶と仕事をしている。そのとき、ぼくたちは歴史家、そして、ある意味、精神科医と縁続きになる。彼らと同様、ぼくたちはこの先起きることを予言できないが、すでに起きたことを掘り返すことで、少なくとも人々がいっそう理解を深め、備えておく、その手助けをすることができる。祖父と違って、ぼくは、大切なことは次の地震は何時何分と予知することだとは思わない。最も大切なことは備えておくということだ。それは難しいことだ。ぼくの学問的、個人的経験からすると、残念ながら、あるいはたぶん幸いなことに、人は何に対しても決して備えていないものだ。


  寺田もベルトランも、肝腎なのは災害を思い出し、来るかもしれない災害に備えることだと説く。だが、何事に対しても、「そなえよつねに Be prepared」というスカウトのモットーを実践するのは難しい。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」、あるいは寺田が言ったとされている「天災は忘れた頃にやって来る」という言葉どおり、人間には忘れるという長所であり短所でもある特徴が備わっているからだ。圧倒的な数の非被災者は忘れ、そして被災者の多くは忘れようとする、忘れたい、と思う。そしてその両者に向けて報道機関は回顧を迫り、ふたたび大きな犠牲を出さないよう警告する。とはいえ、今年の3月11日の朝刊の多くは「南スーダン陸自撤収」が大見出しになり、「東日本大震災6年」は翌12日にずれた。震災の回顧よりも、唐突にも思われる撤収発言を受けてのニュースのほうが、ニュース・バリューが高いと各社が判断したことになる。むろん11日の朝刊でも「東日本大震災6年」をめぐるたくさんの記事・社説が掲載されていたが、やはり大見出しほどのインパクトはない。そうして扱いは往々にして年々小さなものとなっていく。

  時とともに記憶はおぼろになる。忘れたくても忘れられない、人からはもう忘れられているのではないか、思い出させないでほしい、そうした思いに揺れる被災者にとって、経験を消しさることは難しい。だが、すべては時が徐々に癒やしてくれていく。5000人余りの死者・行方不明者を出した1959年9月26日の伊勢湾台風。名古屋市の南区にあったわが家は、高潮、そして近くの天白川の決壊で水没した。「水だ!」という叫び声を耳にしたかと思うと、畳が持ち上がり、スローモーションのようにタンスが倒れる。まさしく無我夢中で屋根に上った。そして朝を迎えたとき目にしたのは、家屋の屋根だけが突出する一面泥水の海。水位は何日も下がらず、やがて救援のボートに乗って脱出。引っ越して数カ月しか住まなかったその家には二度と戻れなかった。このときの記憶は小さな断片をつなぎ合わせたものだと思うが、もしかしたら時とともに改変しているのかも知れない。ただ、水に対する恐怖だけは記憶の底で消えずに残っており、川の流れを、あるいは潮がひくのを、つまりは水が動いていると脚が感じるとき、それが浮かび上がってくることがある。それは実際に体感するときだけでなく、津波が押し寄せる東日本大震災のニュースを、阪神大震災の時とは逆で、まるで映画の1シーンのように、非現実的なものとして見ていているときにも。

  それでもなお、忘れる、そして、何に対しても心構えをしない、という「生き残るための単なるメカニズム」のおかげで、「いま、ここ」に居られるのかもしれない。被災しなかった人々、震災を報道で見聞きしただけの人々は備えているだろうか。もしかしたら震災を経験した神戸の人たちは、22年の時を経た今、もうあのような地震は起こらないと思っているのでは。大地が揺れるたび、これくらいなら大丈夫、と思う自分がいる。




トリュフォー『わが人生わが映画』
(たざわ書房)

  この作品のタイトル『わが人生の映画』は映画ファンであればすぐに連想できるが、トリュフォーの映画評論集Les filmes de ma vie(その一部が、邦題『映画の夢 夢の批評』『わが人生わが映画』としてたざわ書房から刊行されている)にならったもので、その序文の一部、「わたしはこっそり最初の二百本の映画を見た。授業をサボり、非常口やトイレの窓から料金も払わずに劇場内に入って。夜、両親が出かけるたびに、それを機に家を抜け出した。彼らが戻ってくる頃には、もうベッドで寝た振りをしていた。(略)」が、主人公がリンジーに送るメールと思い出す映画群の前のエピグラフにも使われている。若い頃、トリュフォーの映画がかかると映画館に足を運んだものだが、彼がスクリーンに映し出した人間関係の、とりわけ男女のそれの機微が若造に理解できたとは言い難い。大人の映画だった。フゲッの『わが人生の映画』は読む者に映画との関わりを思い起こさせる。だが、星の数ほどある映画から50本を選びだすことができるのだろうか。それも自分の人生と絡めて。バルガス=リョサはこの作品を「合衆国とラテンアメリカの間の橋のように延び、冒険に、驚きに、映画にあふれる、独創的な、とても面白い小説」と評価した。

  作者のアルベルト・フゲッは、1964年、チリの首都サンティアゴ生れ。ジャーナリスト、作家、映画監督。生後間もなくロサンゼルスのエンシーノに移住、11歳になるまでその地で暮らし、1975年、ピノチェト政権下のチリに戻り、チリ大学でジャーナリズムを学ぶ。映画製作の一方、文学活動も旺盛で、魔術的リアリズムに反対し、新しい書き方を模索するマッコンド・グループをリードした。短篇集『飲み過ぎ』(1990)でデビュー、以後、『嫌な感じ』(1991)、『赤インキ』(1996)、『わが人生の映画』(2003)、『ミッシング』(2009)『空港』(2010)等々を発表。


(草稿2012/2/7、改稿2017.3.25)




■執筆者紹介

安藤哲行(あんどう・てつゆき)

  ラテンアメリカ文学研究者。大学を退職後は、晴耕雨読、曇は翻訳の日々。
  訳書に、エルネスト・サバト『英雄たちと墓』(集英社)、カルロス・フエンテス『老いぼれグリンゴ』(河出書房新社)、レイナルド・アレナス『夜になるまえに』(国書刊行会)など多数。
  2011年に松籟社から著書『現代ラテンアメリカ文学併走』を刊行。


『現代ラテンアメリカ文学併走』

  世界を瞠目させた〈ブーム〉の作家の力作から、新世代の作家たちによる話題作・問題作に至るまで、膨大な数の小説を紹介。1990年代から2000年代にかけて生み出されたラテンアメリカ小説を知る格好のブックガイド。詳細はこちらへ。


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