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2019/2/12

母子をつなぐ糸:サマンタ・シュウェブリン『救える距離』

  ときどき、残りのページ数が少なくなってくると、ページをめくるのが惜しくなる本がある。また、そのまま最後まで一気に読み進んでしまう本がある。優れた短篇作家として名を成しているサマンタ・シュウェブリン(1978−、アルゼンチン)が初めて書いた少し長い、といっても原文で120ページほどの小説『救える距離』(2014)は後者。


Distancia de rescate
『救える距離』原書
(Penguin Random House, 2014)

  『わたしたちが火の中で失くしたもの』の作者マリアーナ・エンリケスは、スペインのキメーラ誌のインタビュー(2017年11月)で、「サマンタ・シュウェブリンはいつもホラーを書いてるわけじゃありませんが、とても不安を与えるような要素を組み入れています。わたしとすれば、『救える距離』は中篇のホラー小説です」と語っている。エンリケスの言うように「不安を与えるような要素を組み入れて」描いた15篇から成る短篇集『口の中の小鳥たち』(東宣出版)でシュウェブリンのフアンになった人も多いかと思う。この『救える距離』でも、そうした要素はたっぷり入っているが、まず驚かされるのはその書き方。2人の人物の会話で物語を進めていくという書き方はプイグの『このページを読む者に永遠の呪いあれ』で既知のものなのだが、この作品は徹底していてすべて会話文。ただ、スペイン語文ではふつう会話には「――」という符号(日本語文で言えば「  」)が使われるのだが、2人の人物の現在の会話はその符号ではなく、通常の字体とイタリック体を使ってどちらが話しているのかを区別している。ただし、そのうちの一人の人物が思い出す過去の会話にはイタリックではなく「――」を使って地の文と区別する。その一例を、日本語にはイタリック体はないので、とりあえず斜体にして訳してみると……。


    「そのときダビドがつまずいた、というか、つまずいたように思えたの、そして起き上がるのに時間がかかった。(中略)少し荒い、ダビドの息遣いが耳もとで聞こえた。その女はわたしたちを引き離した、そうっと、でもきっぱりと。ダビドは肘掛け椅子の背にもたれた。そして目と口をこすり始めた。『すぐにしなくちゃいけない』とその女は言った。ダビドは、ダビドの魂はどこに行くの、とわたしは訊いた、ダビドを近くに置いておけるのか、ダビドのためにいい家族を選べるのか」
    「わたし、理解できてるのかどうかわからない、カルラ」
    「理解できる、アマンダ、完全に理解できるわよ」
    わたしは、なにもかもとってもばかげてる、とカルラに言おうとする。
    それはあなたの意見だ。そんなことは大切じゃない。
    実はわたし、そういった話を信じることができないの。でもその話のどこで腹を立てたらいい?
    「私には家族を選べない、その女はそう言ったの」とカルラは言う。「どこに行くのか知ることはできない。移動にはそれなりの結果をともなうとも言った。一つの肉体には魂を二つ入れる場所はないし、魂のない肉体はない。転生はダビドの魂を健全な肉体に連れて行く。でも病気の肉体に見知らぬ魂を連れても来る(略)」


  このように会話文の書き方を変えているが、一人の人物の話す過去の話(1-8、13-16行目)と今、考えていることや状況を示す文(9、11-12行目)はいずれも通常の字体を使っていることもあり、その境はおぼろになる。だが過去と現在が行き来するようなこの書き方が語りそのものに弛みを生じさせないため、読書に緊張感を与え、ぼうっと読んでるんじゃないよと警告する。「不安を与えるような要素」があちこちに組み込まれ、スリリングな展開をするこの作品は次のように始まる。


    ムシみたいなものだよ。
    どういったムシ?
    ムシみたいなもの、そこらじゅう。
    わたしの耳元でささやき、話しているのはその子。質問してるのはわたし。からだの中のムシ?
    ああ、からだの中の。
    ミミズ?
    ちがう、別種のムシ。
    暗くて、見えないわ。シーツがごわごわで、からだの下でしわになってる。動けないけど、話してる。
    ムシのせいだ。辛抱強くなって、待たなくちゃいけない。そして待ってるあいだに、ムシが生まれる正確な点を見つけなくちゃいけない。
    どうして?
    大切だから、みんなにとってとっても大切だから。


  前にあるはずの会話を省略して、「ムシみたい」という唐突な一文で始まっているが、そのことにまず注意を惹きつけられる。「ムシ」とは何か。「わたし」は何を待たなくてはならないのか。「ムシが生まれる正確な点」とは何のことか。なぜそれを見つけなくてはいけないのか。見つけることが、なぜ「みんなにとってとっても大切」なのか。そんな疑問に以後答えていくのかと思っていると、話題ががらりと変わって、次のように続く。


    わたしはうなずこうとするけど、からだが言うことをきかない。
    その家の庭で他に何が起きてる?  ぼくはその庭にいる?
    いいえ、あなたはいない。でもあなたのお母さんのカルラがいる。数日前、わたしたちが家に着いたときに知り合ったわ。
    カルラは何してる?
    コーヒーを飲みおえて、マグカップを自分のデッキチェアーのそばの芝生に置く。
    他には?
    立ち上がり、離れる。サンダルを忘れる、数メートル先、プールの階段のとこにあるの。でもわたしは何にも言わない。
    どうして?
    彼女が何をするのか見てみたいから。
    彼女は何をする?
    ハンドバッグを肩にかけ、金色のビキニのまま車まで行く。わたしたちの間にはおたがい何か惹きつけるものが、そして逆に、少しのあいだ反発しあうときがある。それをとっても限られた状況で感じることができる。ほんとに、こういった意見を言うことが必要なの?  そんな時間はあるの?
    意見はとても大切なんだ。どうしてあなたたちは庭にいるんだ?
    湖から戻ってきたとこで、あなたのお母さんがわたしの家に入りたがらないから。


  謎を謎として置いておいて話に耳を傾けていると、こうして冒頭からほぼ2ページのところで少しずつ状況が具体化し始める。「わたし」と「その子」が話している。「わたし」はどうやらベッドで身動きできない状態にあるらしい。そんな「わたし」のごく近くに「その子」はいる。そしてその子の母親は「カルラ」と言い、「わたし」は、数日前に彼女と知り合っている。だがなぜ「その子」は自分の母親のことを知りたがるのか。なぜ「わたし」は時間を気にするのか。

  さらに読み進めていくと、「わたし」はアマンダという女性で、小さな娘ニーナと休暇を過ごすために、とある町の外れにある貸別荘にやって来るが、そこで病気になり、救急病院に運ばれてベッドにいる、ということがわかる。だがなぜ、ベッドの横にいるのが自分の娘のニーナではなく、「その子」ダビドなのか。なぜそのダビドに導かれるようにしてアマンダはそれまでの経緯を思い出し、ダビドに話すのか。その中で、アマンダはカルラから聞いたダビドをめぐる奇妙なエピソードに触れる。

  ダビドは生まれつき指が1本足りないが、今から6年前、3歳くらいのときに病気になる。そのころカルラの夫は種馬を借りて競走馬を育てるのを生業にしていた。ある日その大事な馬の姿が見えなくなり、カルラはダビドを抱いて捜しに出かける。小川まで行くと種馬は水を飲んでいる。連れて帰るため馬を捕まえるが、地面に降ろしていたダビドが、その川に両手を突っ込んでは指をしゃぶっている。カルラはその近くで鳥が死んでいるのを見て悲鳴を上げる。翌日、種馬は目を腫らし、心臓をバクバクさせている。獣医が呼ばれ、隣人たちが集まる。そんな光景を見てカルラは絶望的になる。遠くにいる医者を待ってはいられず、町の人たちが緊急のときに訪ねる民間療法をする女のところにダビドを連れて行く。ダビドの具合が次第に悪くなり、高熱を出す。ダビドは中毒になっている、ダビドの魂を誰か健康な人に移せば肉体は救われるが、ダビドにはその別人の魂が入るとその女は言う。カルラは結局女にその転生を頼むが、その治療が終わって戻ってきたダビドはそれまでの明るいダビドとは違っており、カルラ自身、化け物とさえ言う。

  こうして、ベッドに横たわるアマンダのそばにいるダビドは、誰だか分からない人物の魂が入った不気味な存在、化け物となったダビドということがわかる。彼はアマンダの身に起きたことの一部始終を知っている。だからこそ子供らしくない言葉遣いで、アマンダの話に「それは大切なことだ」と言うし、アマンダが脱線しかかると「それは大切じゃない」と言って話を先に進ませようとする。一方、この先アマンダに起きることも知っている。だからこそ「時間がない」と言って話を急がせる。果たしてアマンダは間に合うのか。「ムシが生まれる正確な点」を見つけられるのか。

  この作品の筋書きを簡単にまとめると、先にも記したとおり、休暇を過ごすために、夫より一足先に小さな娘を連れて、とある町の外れにある貸別荘にやって来た女性が病気になり、今は救急病院のベッドに横たわって、病因をつきとめるために、別荘に来てからの出来事を思い返している、ということになる。このどちらかといえば単純な物語の縦糸に様々なエピソードの横糸が絡んで、環境汚染やエコロジーという問題をも浮かび上がらせつつ、人と人のつながりというものを考えさせるような絵模様が織り上がっていく。そこにはっきり明示されるのは母子関係。父子関係ではおよそ考えられない、特別な母子のつながり。それがタイトルの「救える距離」だが、それをアマンダは次のように説明する。


    わたしはまたニーナをこっそり見る。今、プールのほうに何歩か歩いてる。
    「ときどき目がいくつあっても足りないってことがあるの、アマンダ。どうしてあの子を見てなかったのかわからない。いったいどうして、自分の息子じゃなくて、あのいまいましい馬のことを気にしてたのか」
    カルラと同じ目に会いはしないだろうか、とわたしは自問する。わたしはいつも最悪の事態を考えてる。今だって、ニーナが突然駆け出してプールまで行き、飛び込んだら、車から飛び出してニーナのとこまで行くのにどれくらいかかるか、計算してる。わたしはそれを〈救える距離〉と呼んでる。娘とわたしを引き離してるその定まらない距離をそう呼んでる。それを計算しながら一日の半分を過ごしてる、いつも必要以上に危険を冒してるけど。


  この〈救える距離〉という言葉は物語の中で頻繁に繰り返され、アマンダの思考と行動を規制するものと意味づけられる。


    救える距離のことをもっと話して。
    状況によって変わるの。たとえば、家で過ごす最初の数時間はニーナをいつも近くに置いておきたかった。いくつ出口があるかを知り、床のいちばんひび割れているところを見つけ、階段のきしみが何かの危険を示しはしないかどうか確かめなくちゃいけなかった。そうしたことをニーナに教えた。あの子は怖がりじゃないけど、よく言うことを聞くの。そして二日目には、わたしたちを結びつけてる目に見えない糸がまた伸びていたけど、あっても許容できるほどで、ときどきわたしたちを自由にさせてくれていた。それじゃあ、救える距離というのはほんとに大切なの?
    とっても大切。


  救える距離とは、何かあればすぐに駆け付けられる距離、いわば目の届くところ(範囲)にあたる。母と子は「目に見えない糸で結びついて」おり、救える距離にはその糸が張られている。アマンダはその伸び縮みでニーナが安全かどうかを感じとっている。母と子は胎内では臍の緒でつながっている。生まれてその臍の緒を切られることで、子は独立した存在となるのだが、それでもなお、母親はアマンダのように、その子とつながっていると感じられるものなのだろうか。いつまで、子がいくつになるまで、そんなふうに感じていられるのだろう。カルラとダビドの場合は、ダビドの命を救うために行った転生のせいでその糸が突然断ち切られる。それは子が母親から精神的に完全に独立することを暗示しているようにも思われる。だからこそ、その変化があまりにも急激であったためにカルラは対応できず、「化け物」と言うしかなかったのではないか。ではアマンダと同じように病気になって民間療法をする女のところに連れて行かれるニーナの場合はどうなるのか。


『救える距離』英訳版
Fever Dream
(Riverhead Books, 2017)

  母子の糸が切れるのであれば、人と人をつないでいる糸はもっと簡単に切れてしまうのではないか。糸を絆と読み替えてもいいのだが、そんな切れやすい糸で人物関係は成り立っている。だがたとえそんな糸ででも結びついていたいと思うのは、孤独、孤立に対する不安や恐れのなせる業か。アマンダとニーナをつなぐ糸は切れるのか。アマンダは助かるのか。そうした思いにとらわれながら読んでいくにつれ、新たな疑問が生まれる。本当にダビドはアマンダのそばにいるのか。そもそもすべてはアマンダが見ている夢であり、アマンダは熱に浮かされているのではないのか。英訳のタイトルFever Dreamはそんな読み方さえほのめかす。この英訳は2017年にブッカーズ国際賞のショートリストに選ばれ、またシャーリイ・ジャクスン賞にも輝いた。原文はすでに2015年、スペインのティグレ・フアン賞(前年度の最優秀小説に与えられる)を受賞してもいるが、高い評価を受け、文学賞が与えられるのも当然の作品である。

  なお、『救える距離』は、この春(2019年)、『悲しみのミルク』で2009年、ベルリン映画祭金熊賞を受賞し、アメリカのアカデミー外国映画賞にノミネートされたクラウディア・リョサを監督にして映画化される。脚本はシュウェブリンと共同執筆とのことだが、物語に緊張感を与え続けるアマンダとダビドの会話の部分をどう処理するのかが見ものと言えるだろう。


(2019.2.12)




■執筆者紹介

安藤哲行(あんどう・てつゆき)

  ラテンアメリカ文学研究者。大学を退職後は、晴耕雨読、曇は翻訳の日々。
  訳書に、エルネスト・サバト『英雄たちと墓』(集英社)、カルロス・フエンテス『老いぼれグリンゴ』(河出書房新社)、レイナルド・アレナス『夜になるまえに』(国書刊行会)など多数。
  2011年に松籟社から著書『現代ラテンアメリカ文学併走』を刊行。


『現代ラテンアメリカ文学併走』

  世界を瞠目させた〈ブーム〉の作家の力作から、新世代の作家たちによる話題作・問題作に至るまで、膨大な数の小説を紹介。1990年代から2000年代にかけて生み出されたラテンアメリカ小説を知る格好のブックガイド。詳細はこちらへ。


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