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2018/8/17

本はそれぞれ、自分の読者を選ぶ:フアン・ビジョーロ『野生の本』

  あの本、どこに置いたのかなあ、と思いつつ、前後二列になった本棚を、そして山積みになった段ボールの中を探し始めるが、なかなか見つからない。そうなると、ええい、面倒だ、新しいのを買おう、という気になる。だが、実際買うと、ある日、あれ、こんなところに、ということに。きちんと整理していないから、それがあった場所にもどさないから、そんな目にあうのだが、本当に記憶違い、あるいは置き場を忘れたから見つからないのだろうか。もしかしたら本が愛想をつかして雲隠れしたのでは……。

  わたしは自然が好き。じゃあ、自然はあなたが好き? そう問いかけられると返答に窮する。フアン・ビジョーロは、この「自然」を「本」に置き換え、本をめぐる冒険小説、教養小説とも言えるような本、『野生の本』(2008)を書いた。それは次のように始まる。


    十三歳のときのできごとを話そう。まるでその話に首をつかまれているみたいで、ずっと忘れられずにいる。奇妙に聞こえるかもしれない。でもその話の「手」を感じさえする。とてもはっきりした感触で、手袋をした手ということさえわかっている。
    その話を内緒にしているかぎり、ぼくは囚われたままになるだろう。こうして書き始めてみると、少しほっとした気分になる。その話の「手」はあいかわらずぼくをつかんでいるが、一本の「指」がもうゆるんでいて、書き終わったらぼくは自由になると約束してるみたいだ。



El libro salvaje
『野生の本』原書
シルエラ社版

  こうして『野生の本』は、大人になった主人公(フアン)が13歳のときの出来事を思い出しながら、それを綴っていくという1人称形式で描かれていく。

  フアンと10歳になる妹は、両親の離婚騒ぎのせいで、2か月の夏休みを別々のところで過ごすことになる。妹は親友の家、そしてフアンは旧市街に住む伯父ティトの家。フアンは、母に連れられて、愛書家であり読書家でもある伯父のところに行く。その変わり者の伯父は、58年の間独身で過ごし、一度結婚する。ところが、妻が本の迷宮で暮らすことに耐えきれず、アパートを借りて暮らし始めるものの、今度は伯父が本のないことに耐えきれず、結局離婚。今は家のことはお手伝いのエウフロシアに任せて、3匹の猫と一緒に、世界各地から送ってもらうことで増殖を続ける自称100万冊の本に囲まれて暮らしている。母親が伯父と話しているとき、フアンは家の中を見に行こうとする。すると、迷ったときに鳴らすよう鈴を持たされる。怪訝に思いながら、「ぼくは書棚に囲まれた廊下を歩き、いちばん近くの部屋に入った。そこは二階分の高さのある部屋で、どの壁も本におおわれていたが、中間くらいの高さにぐるっとバルコニーがあり、そこに上がって二階部分にある本にたどり着けるよう小さな階段があった」。次の部屋に行っても本しか目に入らないが、突然、猫が棚から飛び出す。猫の跡を追うと、暗い廊下に出る。電気をつけようとして、間違ってレバーを下ろすと、階下の洗濯室にすべり落ちてしまう。これが鈴のお世話になった最初の体験。

  翌朝、フアンは伯父に巨大な図書館の一部を案内される。「どの部屋も書棚が壁を埋めているだけでなく、部屋内部の迷宮を形作り、歩きにくくしていた。どの壁の前に立っても、本が多すぎて、反対側の壁が見えなかった」。そこに並ぶ蔵書は妙な分類がなされており、「犬」「臭い悪いが美味しいチーズ」「ベンガル虎」「古代世界地図」「祖母たちの歯」「剣、短剣、槍」「愚かな原子」「音を立てないエンジン」「オレンジジュース」「ネズミのようなもの」「黒い本」「迷宮からの逃げ方」等々、まったく理解不能な分類。コアラが好きなフアンは伯父にコアラに関する本があるかどうか訊く。


「熊の本のあいだにあるはず」と彼は答えた。「何冊あるのか知らない。五百という数になったとき、数えるのをやめた」
「全部、読んだの?」
「むろん、読んでない。蔵書というものは、全部を読むためのものじゃない。参照されるためのものだ。ここの本は万一のためにある。私はこれまでの人生、ずっと本を読んできたが、まったく何にも知らないことがいっぱいある。肝腎なのは、すべてを頭に入れることじゃなくて、どこにあるかを知っていることだ。うぬぼれの強い人間と賢者の違いは何か。それは、うぬぼれの強い人間はもう知っていることを高く評価するが、賢者はまだ知らないことを探すということだ」


  その午後、郵便が届く。それは、鯨の皮で装丁したような、とても古い本で、他の本を探すのに役立つというもの。


    「何世紀も前に、すべての本を関連づける学問が考案された。(中略)それは、本がどんな振る舞いをするか、どこに行きうるかを知るための学問なんだ。本ほどたくさんの性格をもつものはない。一つの蔵書は一つの戸棚、つまり魂のコレクションなんだ、フアン。本は墓地の霊のように動く。誰かに近づくために、あるいは誰かから逃げるために。(中略)長年、幸せな年月を過ごしてきて、私は本それぞれに心があることを学んだ。その心が自分の読者を探す。お気に入りの、理想的な、完璧な読者を。(中略)私はたっぷり生きてきたので、本が自分の意志で場所を変えることを知っている。問題は、どうしてそんなことをするのかということだ。この本はそのことを扱っている。十五世紀のラテン語で書かれた。賢者たちや何人かの修道士たちがその死語をマスターしていたときに」


  やがて伯父は、フアンを呼んだわけを話す。二歳のフアンを数時間預かったことがあるが、帰った後、伯父は本が動き回ったことを知る。その後もフアンが来るたびに同様のことが起こり、伯父は、フアンには本に作用するような特殊な能力があるのではと思う。フアンの母親は伯父がいかれていると思っていたので、これまでフアンを長期間預けたことはないが、離婚騒ぎの渦中にあるため、やむなく伯父の申し出を受け入れたのだった。そして伯父は、自分が手にしたことはあるものの、一度も読んだことのない本を探す手伝いをしてほしいとフアンに頼む。

  ある日、フアンは伯父の風邪薬を買いに、通り向こうのドラッグ・ストアに出かける。カタリーナという刺繍が入った白衣を着た女の子に一目惚れし、しばらく口もきけない。ようやくのことで伯父に頼まれていた薬を買うと、カタリーナはフアンが伯父さんの家から出てきたのを知っており、お客さんがいないとき退屈だから本を貸して、と頼む。フアンは彼女が好みそうな本を探し始め、『ハートの形をした川の旅』という本を見つける。読んでみると、二人の男の子が森で道に迷い、そこから抜け出すための冒険を描いたもの。すっかり気に入って、カタリーナに届ける。食事のあと、カタリーナに貸した本を見つけたところにいくと『ハートの形をした川の火事』という本がある。それはカタリーナに貸した本の続編。翌日、その本を持ってカタリーナのところに行くと、カタリーナは『ハートの形をした川の旅』をひどく気に入っているが、フアンが読んだ話の主人公や筋が違っている。家に帰って読んでみると、確かに最初に読んだものとは違い、主人公は男の子と女の子の二人になっている。フアンは、読む人によって本が変わることがあるのかと伯父に訊く。すると彼は、


  「本は、それぞれ鏡みたいなものだ。つまり、おまえが考えていることを映し出すんだ。英雄が読むのと悪党が読むのとでは同じものにならない。偉大な読書家は本に何かを付け加える。本をより良いものにする。だが、おまえの言ってるようなことがごくたまに起きる。誰かがおまえのために本を修正し、おまえがそれを見分けることができるとき、おまえは川のような読み方に到ったということだ。どの川も穏やかななままじゃないんだよ、フアン、その水は変わるんだ」


  フアンはカタリーナのために『ハートの形をした川の火事』の続編を探すうちに、家の奥のほうの部屋にも出入りするようになるが、頼みの綱の鈴も役立たず、本の迷宮の中で途方に暮れているとき、まわりの本が出口へと導いてくれる。フアンからそんな話を聞いた伯父は、フアンが本に好かれていることを確信し、前に口にした特別な本、つまり『野生の本』を探すよう依頼する。「それは図書館に紛れ込んでいる。わしの高祖父がそれを持っていた。曾祖父も、祖父も、父も。彼らの誰一人、それを読むことができなかった。反抗する本だ。誰かが馴らすことができたとき、読まれるのを受け入れるのだろう。突然、騎手を受け入れる野生の馬みたいに」

  こうして、フアンの「野生の本」の探索が本格化する。仲良くなったカタリーナにも助けてもらい、二人で探し回るが、動いて位置を変えさえする膨大な本の山や森の中ではなかなか見つからない。ときとして目にすることもあるが、すぐに姿を消してしまう。果たして、フアンはどうやってその本を手にするのか。そしてその「野生の本」とはいったいどんな本なのか……。


El libro salvaje
『野生の本』原書
FCE社版

  まるで宝探しのような、本の探索というこの縦糸に、様々な横糸が絡んでいく。父親からの手紙、タイトルを変えて展開していく『ハートの形をした川の旅』、そして、中でもユーモラスなのがたびたび出てくる料理やお菓子。たとえば、フアンは伯父の家での最初の朝、エウフロシアと出会い、朝食は何にするか尋ねられる。「ホメロス・オムレツ、アリストファネス・オートミール、五人のミューズ・シリアル、それともエリザベス朝サンドイッチ?」。ちなみに、盲目の天才ホメロスが発明したというのが伯父さんの言い分なのだが、「ホメロス・オムレツ」の作り方は、「最高の卵を使い、目を閉じて作るの。そのあとギリシアのチーズを少し置いて、オリーブ・オイルに浸して出す」

  あるいは、アルゼンチンの発明家フリオ・コルタサルの短篇から作り方を学んだというブドウの粒くらいの大きさのクッキー、クロノピオ。「幻獣の形をした新しいタイプのクッキー。クロノピオは時の神、クロノスから来ている。しょっぱいのは他の時代の思い出をもたらし、涙の味がする。甘いのは夢を抱かせるし、未来の時代の砂糖の味がする」

  また、随所で挿入される文学に関わる話もなかなか面白い。一つ例を挙げてみよう。図書館にはいたるところにゴキブリがいると言うフアンに、伯父は、おまえはザムザ領で道に迷ったんだ、と応え、グレゴール・ザムザの話をする。


「グレゴ―ルは自分をムシだと思い、昆虫になってしまった男だ」
「ほんとにいたの?」
「いいや。いちばん尖った耳をしていた作家が作り出したんだ。カフカという」
ぼくは伯父の耳を見た。その耳もかなり尖っていた。それに白い髪の毛がかかっていた。
「どんな種類の昆虫になったの?」とぼくは訊いた。
「カフカのことか?  彼は生涯、自分を昆虫と思っていた」
「違うよ、その登場人物」
「ああ、ザムザ氏のことか。それは人類にとって最大の謎の一つなんだ。彼は昆虫に変わったと作者は書いたが、それだけであとは何にも。何人かの専門家は、それは木の梁に住み、物語が展開するプラハの古い家に典型的な甲虫だと考えた。だが、人類には固定観念がある。カフカは「ムシ」と書いた。するとだれもが、最も嫌悪感を抱く敵、つまりゴキブリを考えた。今、私たちは侵略されている。図書館のいくつのセクションがもうザムザ領になっているかわからない」


  この230ページほどの『野生の本』は、児童、あるいはヤングアダルト向けの本に分類されている。ただ、2008年メキシコのフォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカ社(FCE)の版には随所にガブリエル・マルティネス・メアベの挿絵があるが、2009年にスペインで出たシルエラ社版には挿絵はない。どの年齢の読者に向けてアピールするのか、出版社の意向が働いているのだろうが、児童、あるいはヤングアダルト、いずれにせよ、この本は、その年頃の少年・少女に読書の楽しさを知ってもらうのを前提にして書かれている。とはいえ、よく言われるように、たとえ児童文学であっても、それは児童だけのものではなく、かつて児童であった大人たちのものでもある。主人公を13歳という思春期の入口に立つ、微妙な年頃の少年にしたのは、子供から大人に向かうその境目が、人生の中で大きな意味合いを持つからなのだろう。「読書は好きだけど、とってもというほどじゃない。テレビを見たり、自転車で走り回ったり、ぼくの犬、ピンタとか友だちのパブロと遊んだりするほうがいい」というフアンが『野生の本』という本を探す、つまり一つの目的をもって行動するうちに、伯父の言葉を受けてさまざまなことを考えるようになる。夏休みのあいだにフアンは精神的に大きく成長するのだ。この本はすでに英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語に訳されており、若い人たちに読書の楽しさを目覚めさせ、多くの若い読者を創り出しているに違いない。

  『野生の本』には先に記したようなフアンと伯父のやりとりの中で、とりわけ本や読者・読書をめぐる作者の思いが、Q&Aのような形で随所にあらわれる。そのAの部分を集めれば「ティト伯父さん語録」ともいえるものになるが、そのいくつかを抜き出してみよう。


1.読書の第一人者とは、いちばんたくさん本を読む人のことではなく、読んでいるものの中にもっともたくさんのことを見つける人のことだ。
2.心は考えるための機械だ。いちばん重要なのは、心に資料を詰め込むことじゃなくて、心を使うことなんだ。頭はそれぞれ違う機械であり、だからこそ、人はそれぞれ、考えるために自分自身の方法を使わなくちゃならない。
3.読むことができるからというだけで、本が理解できると思っている人たちがいる。まえにも言ったが、本は鏡みたいなものだ。人はそれぞれ、自分の頭の中にあるものを、そこに見つける。問題なのは、正しい本を読むときにしか、心の中にそれを持っていることがわからないことだ。本は無分別で危険な鏡なんだ。最も独創的な考えを頭から出させ、持っていることを知らなかった考えを抱かせる。読まないときには、そうした考えは頭の中に閉じ込められている。まったく役に立っていない。
4.大物を気取ってる連中は特別じゃない。うぬぼれが強いだけだ。天才は単純なんだよ、自分が天才だとは考えない。
5.悪い、とっても悪い本はある。出来の悪い、とか、くだらない本のことを、苦しむことが役に立たないのに苦しんだ人物によって書かれた悲しい本、ただ有名になりたがっているだけのばかによって書かれた本のことを言ってるんじゃない。わたしが言っているのは他の本に害を与え、攻撃する本だ。それを識別するのは難しい。というのもそんな本は抜け目がなく、自分の本当のメッセージを隠しているからだ。読めば、心地いいものに思えるかもしれないが、他の本が言っていることを忘れさせてしまう。偉大な読者と言うのは騙されっぱなしにはならないが、ときには彼らでさえ、忘却と悪意でできたその毒を受け入れる。
6.本は著者よりも重要だ。最高の本は本が自分で書いたように思える。
7.本はたがいに関りをもっている。あるものは友人になり、あるものは親類になりさえする。だけど、他の本の良いメッセージを軽蔑し、傷つけようとするような、ねたみ深い本もある。それは、自分で何かを提案できないような、他の人たちがすることを壊しかねないだけの連中が作った本だ。
8.本というのは池みたいなもの。表面では一つの話を示し、底では別の話を示す。


  こうして見てくると、「本」を「人間」に置き換え得るものさえある。つまりはこの本は読む人に合わせて、いかようにも読み方が変わるものとなっているとも言いうる。こうしたティト伯父の言葉の、極めつけは、やはり、「本はそれぞれ、自分の読者を選ぶ」だろう。長いこと本を読み、選び、買ってきたが、果たして、これまで本に選んでもらったことがあるのだろうか、と自問する。もしかすると、書店で本を眺めながら、名も知らない作家の本を買うというのは、そんな本の力に影響された結果なのではないか。今思えば、フアン・ビジョーロを読むようになったのはまったくの偶然であり、彼の短篇集『プール』との出会いは、本に選んでもらって読んだ本のような気がしないでもない。


Albercas
『プール』原書
ホアキン・モルティス社版

  ビジョーロの本を最初に読んだのは1985年の夏のことだった。当時勤めていた大学の語学研修の引率でグアナフアトにひと月ほど滞在したが、そこはまだ世界遺産に登録されてはおらず、観光客はそこそこいるものの、同市の名高い大学に通う学生のほうが目につくような、のんびりとした町だった。長々しい時間をもてあまし、毎日、3軒しかない小さな本屋に通っているうち、その1つ、クリスタル書店で『プール』(1985)という短篇集を見つけた。裏表紙の作者紹介は「フアン・ビジョーロ(一九五六年、連邦区生まれ)、当シリーズで、『航行可能な夜』を出している」とあるだけ。紹介文は「『プール』は、現実を前にしてとりうる態度全部を映し出している。水底でのように、この本を構成する物語は、それぞれが独自の空間とリズムをもち、愛、音楽、芸術、遠くの、また近くの風景を教えてくれる。(略)」と始まり、当然のことながら、読書に誘うようなタッチで書かれている。その年の2月に2000部で出た、7篇から成るこの短篇集を読み、短篇それぞれが鮮明なイメージを読者に与えるその書き方に惹かれ、いわゆる処女作にあたる、11篇から成る『航行可能な夜』(1980)を続けて読んだ。それから2年後の1987年、『すばる』の編集者に、6月号の「海外同時代短篇」という特集で3人の作家を翻訳紹介するから、誰でもかまわないので選んでほしいと言われて訳したのが、『プール』所収の『ガラスの沈黙』。他の2編はアレナス『パレードが始まる』(野谷文昭訳)、ペリ=ロッシ『人間もどき』(木村榮一訳)だった。なぜビジョーロなのか、と何人かの人に訊かれもした。87年当時、ビジョーロは掌編集『過ぎ去りし日々』(1986)を加えただけで、あいかわらず知名度は高くなく、いわば海のものとも山のものともわからなかったからだ。『プール』を読み、やがてすごい作品を書きそうという期待が現実のものになるには1991年に発表する長篇『アルゴンの照射』まで待たなくてはならなかった。この作品については、「目の悪夢」という一文を『ユリイカ』(1995年1月号、拙書『現代ラテンアメリカ文学併走』所収)に載せたが、ドイツ語訳が出て高く評価され、欧米でも名を知られるようになった。以後、ビジョーロは長篇、短篇集、評論集、児童文学等、様々なジャンルの作品を発表し、ビジャウルティア賞、エラルデ賞、ホセ・ドノソ賞をはじめ多くの文学賞を受賞し、文学賞の審査員を務めたりするほどになっている。今となれば、30年あまり前の自分の目が節穴でなかったことに、ただただ、ほっとする。


(2018.8.17)




■執筆者紹介

安藤哲行(あんどう・てつゆき)

  ラテンアメリカ文学研究者。大学を退職後は、晴耕雨読、曇は翻訳の日々。
  訳書に、エルネスト・サバト『英雄たちと墓』(集英社)、カルロス・フエンテス『老いぼれグリンゴ』(河出書房新社)、レイナルド・アレナス『夜になるまえに』(国書刊行会)など多数。
  2011年に松籟社から著書『現代ラテンアメリカ文学併走』を刊行。


『現代ラテンアメリカ文学併走』

  世界を瞠目させた〈ブーム〉の作家の力作から、新世代の作家たちによる話題作・問題作に至るまで、膨大な数の小説を紹介。1990年代から2000年代にかけて生み出されたラテンアメリカ小説を知る格好のブックガイド。詳細はこちらへ。


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